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<title>ブログ</title>
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<title>性格から独立した反応　発達障害の元を作ったのはクレッチマーか（ADHD編）</title>
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「体格と性格」という非常にわかりやすい分類をしたことで有名なクレッチマーだが、残念ながら、今はその分類は医学的にはあまり肯定的にみられていない。だが、性格類型と特有な反応形態の研究は、あくまで個人的な感想だが、現代でいう発達障害の先駆けとなっているような気がしたので、引用してみる。「原始反応は外部刺激に対して、直接的で、ほとんど反射的な経過をとる反応である。…特に原始性性格と結びついている。この言葉は、衝動人もしくは本能的人間のことを指している。」→ADHD（多動型）に近い「直接の原始反応のほかに、クレッチマーにより遷延性原始反応が記載され、この場合も同様に強度の感動が体験から反射的に生じるが、その反応は発散してしまうのではなく、持続性の感情緊張状態と感動準備性へと至る」→ADHD（不注意型）に近い不注意型は、ぼーっとしている感じではなく、むしろ「感情緊張状態」にあるという説明は、日々の経験の中で腑に落ちる、そして、「感動準備性」という表現は、非常に洞察力のあるものだと感じた。こういう詩人的な、俳人的なセンスを得られるのが、精神病理学を学ぶとても重要な意義だと思う。
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<link>https://nryohinkangen.jp/blog/detail/20251210211116/</link>
<pubDate>Wed, 10 Dec 2025 21:27:00 +0900</pubDate>
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<title>シュナイターの「臨床精神病理学」はいいね</title>
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シュナイターの「臨床精神病理学」は、九か国語に翻訳されたとは知らなかった。８１ページと簡潔にまとまっていた点が良かったのかもしれない。新訳が出ていないかなとみてみたら、２００７年のものがあった。１９７７年のものもあった。後者はそろそろ著作権が切れるかも。ところで、医学書は何でこんなに高価なんだろう？医師が裕福だからかな。発行部数が少ないからか。その理由は、よくわからないが、この書は、医学書を超えて、普遍的な名著だと思う。岩波文庫から発刊されないかな。ヤスパースのような、方法論的視点ではなく、むしろ臨床的・実用的な視点に従って構成されるらしい。しかし、ベストセラーとなったこの著作においても、著者が「直接の並行現象として、ある特定の脳の事柄に属するような、ただ一つの精神的な事柄も知られていない」と言っていたように、この類型には根拠がないのだ。ところで、化粧品のCMで「私が証明です」というものがあったが、もはや、「我々が証明です」となるしかないのだ。つまり、要するにたくさんの人がその類型により、幸せになり、社会で活き活きと再び（初めて）働き始めたことで、社会に善なる貢献ができれば、その類型は正しいのではないか（？）となるのではなかろうか。
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<link>https://nryohinkangen.jp/blog/detail/20251210204721/</link>
<pubDate>Wed, 10 Dec 2025 21:08:00 +0900</pubDate>
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<title>たまねぎをむけると、そこはたまねぎだった。目の底が白く光っていた。</title>
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国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だが、玉ねぎをむいても、そこは玉ねぎであり、目の底が涙で白く光るだけだ。クレペリンは「同じ原因、同じ心理的基本型、同じ展開と経過、同じ転帰、同じ脳所見を持つ病像は、すなわち全体像として一致し」とあるが、ヤスパースは、「疾患単位という理念は一つ一つの例では実現させることはできない。なぜかというと同じ原因と、同じ症状と、同じ経過や転帰と、同じ脳所見が規則正しく一致するということを知るには一つ一つの細かい関連を完全に知り尽くしていることを前提とするが、こういうことは無限に遠い未来のことに属する」といっていた。要するに、玉ねぎを剥いたら、また玉ねぎが出てきて、それをむいてむいてむいたら、ついには何もなくなり、ただ涙がとめどなく出ただけだった。ということだろう。しかしまた、「疾患単位の理念は、実際はカントの意味の理念で、すなわち目的が無限のところにあるのでその目標に到達することが不可能であるような課題という概念である。しかしそれにもかかわらずこの理念はわれわれに成果の上がる研究方向を示し、経験的に個々の例を研究する時に本当の見当をつけさせる」ヤスパースは、カントを引用していたが、アリストテレスも同じことを言っていた。だから、精神病理学は、「病」の分類ではなく、「類」（Gattung)という概念を適用するそうだ。要するに、精神病には器質的な変化がないのだから、百聞は一見に如かずの一見、論より証拠の証拠がそもそもないのだ。その中で、何かを見つけるのは、もはや宗教しかないと思う。
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<link>https://nryohinkangen.jp/blog/detail/20251210202110/</link>
<pubDate>Wed, 10 Dec 2025 20:47:00 +0900</pubDate>
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<title>ヤスパースが予見した「支配観念」とは？</title>
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ヤスパースは、発生的了解を用いて妄想様観念と真性妄想を分類していた。「（真性妄想を）心理学的にそれ以上遡りえない、現象学的に究極のものである。」と言っていたが、私が思うに、真性妄想とはある種の諦めではないのか…医師は、患者が治療に非協力的な場合は諦めてしまってもよいが、事業主は、会社の危急存亡がかかるため、真性妄想と片付けられず、自らが滅びるか、会社が滅びるかまで、原因と対策を考え続ける必要があるような気がする。さて、ヤスパースは、「支配観念（優格観念）」という興味深いカテゴリーを挙げていた。「支配観念というのは、パーソナリティーやめぐりあわせた出来事から了解できる強い感動を帯びていて、そのためにいわばそのパーソナリティーがその観念と一体になってしまい、誤って本当と思われるような確信である」発明妄想、嫉妬妄想、好訴妄想など。事業所において、妄想は、現実に近いほど危ない。なぜなら、巻き込まれた方が、それが妄想なのか現実なのかがわからないからだ。たとえば、発明妄想をもった方が、素晴らしい発明をしたが、特許化する前に会社に盗られたと主張した場合、それが本当かウソかは、弁理士や裁判官が精査しないと、わからない。「CIAに攻撃されている」という被害妄想なら、それは統合失調症として発見されやすく、早期受診につながるので、結果として、適切な投薬治療によって、症状が重症化する前に抑えられるのだが。支配観念があり、妄想が現実に近いゆえに、病気の発見が遅れてしまう方々のためにも、なにがしかの仕組みが必要だと思った。
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<link>https://nryohinkangen.jp/blog/detail/20251210200534/</link>
<pubDate>Wed, 10 Dec 2025 20:20:00 +0900</pubDate>
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<title>精神病の解明って、科学なの？</title>
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もはや、科学ではない。なぜなら、科学は、客観的な因果的説明をするのに対して、精神病理学は、発生的了解を扱うからだ。宗教家の出口王仁三郎は、科学では、牛の毛の先の、そのまた先の…ものしかわからんぞと、科学により霊魂を説明しようとしていた弟子を諫めていたが、もちろん科学は大事だが、科学ではわからないことは山ほどある。人間の自由意思もそうだ。ヤスパースは、ニーチェのことを「最も偉大な了解心理学者」と評していたが、内からの因果性を認める以上（つまり、自分だけの謎の因果律をOKとする、ヒュームの立場を認める以上）、確定した真理となる因果律は存在しないのだ。バークリーは「存在するとは、知覚されることである」といったが、精神病的な現実的な生活に支障を来す謎の因果律を、認めないで「精神病」とフッサールの言う現象学的還元をして、カミュの言う哲学的自殺をするのも可能だが、そこをあえて、生活発展の意味連続性の観点から、相手の立場に立って、ヤスパースのいう感情移入的了解をするなかで、その法則性というものが見えてくるような気がする。思うに、お釈迦様の十二因縁も、外在するものから、因果をさかのぼるにつれて、受動と能動が一つになり、そこからは、内在するクオリアなどの世界になっていく。どこまでさかのぼるか、より因果を追窮して、そこにある種のカテゴライズできれば、精神病は解明されたといえるのでないか。ただ、十人十色、千差万別なため、もちろん例外はあるだろう。そこは人間の精神なのだから、数学のように、きっちりとはいかないような気がしている。
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<link>https://nryohinkangen.jp/blog/detail/20251210195157/</link>
<pubDate>Wed, 10 Dec 2025 20:05:00 +0900</pubDate>
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<title>精神科医でないのに、精神病の解明はできるの？</title>
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できるかできないかは、わからないけれど、やってみよう。それでは、無謀なチャレンジかもしれないので…根拠としては、「ヤスパースは、精神科臨床と精神病理学をはっきりと区別していた。前者は、臨床家として精神科医は常に一人一人の患者を頭に思い浮かべるが、後者は、普遍的な概念、関連性、法則性を追求する。」（「基礎としての精神病理学」マルクス・イェーガー）また、「ヤスパースにとって精神病理学は、臨床における知見の有用性で判断される精神医学の単なる補助手段ではなく、独自の、独立した学問である」とも評している。それゆえに、「伝えることができる、体系的な、概念としての考え方」が必要とされているのだ。私が思う、精神病の解明とは、その「考え方」を作ることだ。だから、既存の医療とは、独立した学問であり、診断や診療を目的としてはいない。ヤスパースは、精神病理学は、心理学と区別ができないと言っていたが、私は、精神病理学は、心理学を超えて、人々の精神に善なる感化をする、文学や哲学など、人間の倫理に属する「新たなパラダイム」である必要があると考えている。
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<link>https://nryohinkangen.jp/blog/detail/20251210194105/</link>
<pubDate>Wed, 10 Dec 2025 19:51:00 +0900</pubDate>
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<title>精神病の解明には欠かせない「精神病理学」とは？</title>
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私が、精神医学者の泰斗であり、一級の哲学者でもあるヤスパースに出会ったのは、大学2年生の時だった。彼の「哲学入門」を手に取って思ったことは…全然、入門ではない笑ということだった。これは、むしろ宗教なのではないか、ヤスパースの教義なのではないかとも思った。どうやら、ラジオでの講演をまとめて本にしたものだったらしい。それなので、哲学書にしては、断定的な表現が多かったのかもしれない。さて、ヤスパースがなぜ、「包括者」や「愛しながらの戦い」という思想を持つに至ったのかというと、それは、精神医学者として精神病の方々に接していた経験があったことも大きいのだろう。現実の認識能力が欠けてしまう統合失調症は、自らがこの世界の「包括者」に（それだから言語新生もあるのかもしれないが）そして、双極・境界的な方は「愛しながらの戦い」という両価性を表しているのかもしれない。思うに、双極性障害が重症化すると統合失調症的になるという段階仮説を正しいという立場で論ずれば（本当は、どうなのか…）統合失調症まで悪化せずに、双極的な実存をして、相対の世界に自らを引き留めることが必要だと、ヤスパース言っているのかもしれない。統合失調症になると、「絶対者」という概念がどうしてもちらついてしまう。たとえば、妄想もそうだ。幻聴もそれを跳ね返すことができずに、シュナイターの一級症状よろしく支配されてしまう。相対の世界で、双極的もしくは境界的に、相対するものと戦うことは、その方を絶対者にさせないという意味があるのかもしれない。そう考えると、今まで、事業主である私に対して、戦いを挑んできた双極的・境界的な方々とのいさかいは、それを受けて会社をよりよく発展させること以外にも、その方にとっても意味があったことなのかもしれないと、ヤスパースを久しぶりに読み直してみて思った。先人の苦難の歴史の上に、自らも乗らなくては、（なんで、こんなことをしなければならんのだ…）という思いがすぐに頭をよぎる。わずかではあるが、私財を投じて、この会社を経営を通して、精神病について考察する、時間と労力、手間暇…これらは今までに考察し、人類の平和と発展を願って、人生を精神病の解明のために捧げてくれた、科学者や医学者のために、捧げたいと思う。だから、私の代で解明をして、私の使命を（できれば早めに）全うしたいですね。そのほうが、早く一部の人類が幸せになると思うので。こうやって書いていくと、タイトルから大きくそれていってしまうが、ヤスパースに代表される「精神病理学」とは何なのかというと、「精神病理学の対象領域は、意識が覚醒状態にある人間の、機能不全へと通じる大抵は苦悩に満ちた体験様式や行動様式である」というシャルフェッターの定義が妥当だと思う。「（社会的な）機能不全へと通じる体験様式や行動様式」のみならず、「大抵は苦悩に満ちた」その根源にまでアプローチをして、意識が覚醒状態にある人のそれらを（つまり催眠術とか洗脳とかは使わずに）一つ一つ丁寧に救っていきたい。これが、私が成し遂げたい、精神病の解明であります。表立った症状を抽出した診断マニュアルを分類したい、つまりラッセルの言うレッテルを貼りたいのではなく、その症状が出る前の苦しみにフォーカスをして、そこから衆生を済度させていただきたい。それを繰り返すと、救い方のパターンが見えてきて、それが自然と精神病の解明になるのではないかと思っている。パターンがあれば、より正確に、より早く、より安全に人々を救える。そのためには、同じ目線に立って一緒に仕事をして、社会生活のどこで機能不全が現れるのかを考えて、それを減らすアプローチを考えていく中で、カテゴライズができるのではないか。そんなことを考えております。
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<link>https://nryohinkangen.jp/blog/detail/20251210190927/</link>
<pubDate>Wed, 10 Dec 2025 19:40:00 +0900</pubDate>
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<title>B型作業所で、利用者の方とご一緒に作業</title>
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弊社の軽作業を、B型作業所に依頼をしてみよう！ということで、行ってまいりました。どうやらお忙しかったようで、「障がい者雇用のスペシャリストなら障がいが重めな利用者のことを見てくれ」とのことで、ご一緒にＢ型作業所で、作業をしてまいりました。知的障がいと発達障がいを併せ持っている方でした。作業中は、作業の手順を細かく聞かれました。ＡＳＤ的な傾向を持ち方に多い作業の仕方です。ポイントは、ここでは答えてはいけない。なぜならば、ここで答えたことはメモに取られて、次から指示が少しでも違った場合は、不機嫌になったり怒り出したりそれをもとに相手を批難してしまうからです。AＳＤ的な傾向をお持ちの方は、自他の区別がないため、上司と部下の区別もない。したがって、ルールが絶対となる傾向があります。そして、それから外れるものを反駁してしまうわけです。我々は、全ての言葉と行動に一貫性があるわけではなく、その場で考えて、よく言えば臨機応変に、悪く言えば適当に物事を進めています。ＡＳＤ的な傾向をお持ちの方の、ルールを決めたいという発達的な特徴は尊重しますが、何も争いの火種を作る必要はない。よって、曖昧に答えるのが、回りまわって作業を円滑に進めるコツです。そして、ＨＳＰ的な傾向をお持ちの方は、全工程を事前に知らせないと、「情報を与えられていない」と憤る傾向がございます。また、その人ができるお仕事のみを与えると「過小評価されている」と不満につながる。だから、まずは全工程を説明して、全てをしてもらおうとし、そして、できないということをわかってもらってから、少しずつお仕事内容を絞っていきます。ＨＳＰの方の良いところは、やる気に満ち溢れているところです。一切手を抜かない、仕事に全力投球で真剣勝負なところは、好感が持てます。それゆえにできないと落ち込みやすいため、できたところはわかりやすくほめるなど、フォローが欠かせません。そうして、少しずつ作業内容を限定していき、ご本人が納得し、会社側も任せられる作業を、その方のお仕事として切り出すということになります。今回は、その方が知的障がいもお持ちだったということもあり、私が拘束されることでの採算が取れる作業がなかったため、継続した作業はなしということになってしまいましたが、Ｂ型作業所にうまくなじめない方でも、このように発達障害的な傾向を考慮した、その方の幸せにつながる応対を行っていけば、必ずその方も作業所も社会も幸せとなる、軽作業がきっと見つかるはずです。このブログの記事が、その一助になることを願っております。
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<link>https://nryohinkangen.jp/blog/detail/20251209151153/</link>
<pubDate>Tue, 09 Dec 2025 15:34:00 +0900</pubDate>
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<title>哲学が与えた良い影響</title>
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結論は…特にない！というと語弊があるが、あまり、哲学者の思想で、感銘を受けたものは、ないような気がする。では、どんな良いことがあったかというと、よくぞまぁここまで一つのテーマを深く考えたものだなぁーという思想的体力、忍耐力が身につけるトレーニングになったような気がする。高校で習う、倫理という教科でいえば、ウィトゲンシュタイン、哲学的論考、言語ゲーム、家族的類似性で終わってしまう。しかし、実際に彼の生涯を思想とともに学んでみると、精神病者が続出する家系、飛行機乗りになって死にたいという願望、ラッセルとの出会い、哲学的論考による喝采、小学校教師になる、そこでの挫折と変遷、青色本の執筆と、歴史を見ると、あの、あのウィトゲンシュタインさんが、「家族的類似性」というなんて！と、ハイジでいう「クララが立った」的な感動がそこにはあります。これだけ、硬派にロジカルに言語を考えていた哲学者が、ついに「言語はゲームだ」と称した。思えば、大人気漫画のワンピースも、「海賊王、冒険、母の不在」というキーワードで要点はつかめないこともないですが、そこに至るまでのドキドキ、わくわく、楽しさがあるわけです。哲学って、一人の中にある思想をずっと追っていく中で、考え続ける忍耐力がつくだけでなく、よくここで切り抜けたよな（クロコダイルを退けたアラバスター編のような）という楽しさが大いにあります。個人的には、レヴィナスの生きざまと、あとは、なんといってもカントの生涯が素晴らしいと思います。哲学は、素晴らしいですね。あとは、お釈迦様の「維摩経、法華経」ですね。皆さんもぜひ学んでみてください。
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<link>https://nryohinkangen.jp/blog/detail/20251116200707/</link>
<pubDate>Sun, 16 Nov 2025 20:23:00 +0900</pubDate>
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<title>診断名は、その方を幸せにするためにある！</title>
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ラッセルというノーベル文学賞を受賞した論理学者がおりました。この時点で、論理学というバリバリの理系の思考を持ちながら、「西洋哲学史」という本を書き上げた…思想界の大谷翔平ともいうべき知の巨人でしょう。ちなみに、人類最高の科学者といっても過言ではないアインシュタインと、ラッセルアインシュタイン宣言をした、アインシュタインと双璧を成す、学者だと言えるでしょう。投獄されていたときに、面会に来た友人に「なんでまた、君はそんなところにいるんだね？」と尋ねられたラッセルは「君こそ、なんでそんなところにいるんだい？」と尋ね返したというエピソードが私は好きです。そして、ラッセルの言葉で私の座右の銘の一つとなっている言葉「「最悪なのは、あらゆる人間を分類して（仕分けして）明瞭なレッテル（ラベル）を貼ること（行為）である。この不幸な習性の持主は、自分が相手に適切だと思うタグ（札）を貼りつける時に、その相手について（タグをはりつけるに足る）完全な知識をもっていると考える。」全く分類をしないと、マネージメントができず、会社が成立しないため、現象学的還元の要素からの仮のラベリングは必要だが、それは誤謬を多分に含んでおり、常に更新をしていかなくてはならないということは忘れずにいたいと思う。
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<link>https://nryohinkangen.jp/blog/detail/20251116194936/</link>
<pubDate>Sun, 16 Nov 2025 19:59:00 +0900</pubDate>
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